当社について

AMMS Exportはオンタリオ州南部に位置するカナダの公認輸出会社です。当社は数多くのカナダのクラフトビール醸造所から日本の卸業者(代理店)への主要な輸出業者で、発信地トロントからクラフトビールをお手元までタイムリーにお届けいたします。

カナダのクラフトビールについて

>カナダ人経営の醸造所により製造
>少量ずつ希釈せず製造
>天然材料を使用
>麦芽不使用飲料

オンタリオの醸造所はバラエティに富んだ風味を醸し出しており、高品質を誇るカナダの新鮮な原材料を堪能することができます。

オンタリオ州クラフトビール醸造について

オンタリオ州のクラフトビール醸造者は70以上の小規模な独立した醸造所が提携しており、すべて新鮮な天然材料を使用しオンタリオ州の地元の各地域で醸造しています。そこで500以上のプレミアムビールが手作りされており、非常に膨大なセレクションで商品を提供しています。

2017年にはカナダは建国150周年を迎え、その創立州としてオンタリオ州は記念祝賀に参加しています。

オンタリオビールの歴史  

 

さまざまな意味で、オンタリオ州の小さな醸造所の台頭は、この州が創設された頃にビールが豊富に醸造されていた頃の伝統への復帰を示しています。今日に飲まれているクラフトビールの多くは、過去にここで醸造されたビールのスタイルからインスパイアされたものです。

 

醸造の伝統

 

最初の英国入植者、その多くはアメリカ革命を逃れて来たロイヤリスト(王党派)の人達でした。彼らは1700年代後半にこの地に到着し始めました。彼らは上等のビールへの愛情をもたらし、大麦の栽培に理想的な気候と土壌をここに発見しました。他の仕事がほとんどない長い冬の期間、ビールの醸造に必要な低い温度と時間を提供しました。

 

開拓時代には、麦芽酒やビールは健康的な食事の一部として考えられていました。医者は少なかったのですが、ハーブと一緒に醸造された特別なビールは、薬として扱われていました。当時、ビールはしばしば地元の水よりも安全な飲み物で、多くの地元の旅館や、納屋の棟上げなどの催し物の一部とされていました。英国の兵士達には、毎日の配給の一部として、ビールまたはビールを買うための金が配給されていました。

 

英国スタイルの維持

 

このように、新しい州のアッパーカナダ(現在のオンタリオ州)はビール醸造文化が育つための優れた条件が与えました。そしてさらに、他の要因が作用しました。当時穀物の輸送はいささか困難であったため、ビールを醸造して販売する方が簡単だということになったのです。州周辺にあった数多くの酒場と共に、英国軍は大きな喉を乾かした市場となりました。

 

ジョン・グレイブス・シムコー(John Graves Simcoe)副総督が、州のバックボーンであった農業経済を支える醸造所の設立を積極的に奨励したことにより、地元の人々が、米国の新興市場で人気を博していたアルコール度数の強いお酒ではなく、地元で生産された英国スタイルの飲み物を飲むことを確立させました。

 

小さな醸造所の台頭

 

こだわりをもつビールを飲む一般大衆の人々は、醸造の卓越性と州の中に醸造所を増やすことを奨励しました。ビールの歴史研究家であるイアン・ボワリング(Ian Bowering)氏によると、この高地である、オンタリオ州にある130の町に300軒以上の醸造所があったと言います。

 

こんなストーリーもあります。ヨークシャー移民であったトーマス・カーリング(Thomas Carling)は最初は農業を営んでいましたが、彼の醸造はとても人気があり、植え付けをするための畑を掃除するという重労働の際、近隣の人々の渇きを和らげるために、定期的に「スタンピングビー」と呼ばれるパーティーに招かれていました。ロンドンに新たな軍隊兵舎が設立されたとき、カーリングはこのチャンスを掴み、自分の醸造所を開設し、カナダのビール伝承者の1人となったのです。

 

移民とビール

 

新たな移民の波が到着すると、彼らは自分たちが持ち込んだビールを、この地のビールにミックスさせました。最初の入植者が好んでいた英国のエールには、アイルランドのエールとポーターも加わりました。それから、ドイツ人はラガーと共にやって来たのです。オンタリオ州を訪れた人たちは、地元の醸造酒の品種と品質に注目しました。

 

節制から禁酒への移行

 

1800年代に、国境近くの南部で強い禁酒運動が勃興しましたが、宗教的なトーンを強く持っていた反アルコール団体は、一般的にこの地域では受け入れられませんでした。この頃すでにビールは定番になっており、カナダへの侵略が失敗した後(1812年の戦争)、大衆の反「アメリカン」の感情が強くなって行ったのです。

 

19世紀の後半に禁酒運動が広まりましたが、現在のものは宗教とは関係なく、自主的な進歩と社会改善に関連したものとなっています。1878年の禁酒法は、町や地方政府に、管轄区内でアルコールの販売を禁止する権利を与えました。1916年までに、第一次世界大戦が本格化すると、カナダのすべての地方政府(ケベック州を除く)が禁酒を実施しました。

 

ビールも禁酒法の対象に…

 

しかし、禁酒は決して明確な問題とはなりませんでした。なぜなら、ビールの生産自体は禁止されず、多くの醸造所はビールを「輸出用に」として生産し続けることができたからです。アルコール度数を減らした(2.5%)のビールは、薬用目的のためのビールとして使用することが許可されたため、クリスマスシーズンになると、病院には長蛇の列ができました。

 

この頃、通信販売業務が急増しました。顧客が自分の注文したビールを取りに行ける、地元の醸造所に送金することのできるケベック州やアメリカの州にある代理店に注文することが多くなったからです。なぜなら州外の領収書の取引が完全に合法化されたためでした。

 

その抜け道と、禁酒されていた州へ国境を越えて行う密造の機会もありましたが、禁酒法はビール産業に及ぼした影響は少なくありませんでした。戦後、各州の禁酒法が次々に廃止されましたが、カナダにあるライセンスを持つ醸造所の数は118軒から72軒にまで減少してしまいました。

 

小規模醸造所の統合

 

電気、冷蔵庫とより良い、より安い輸送などを代表とする20世紀の発展により、大型醸造所の建設と広い地域への輸送供給が容易になりました。ラガービールの人気が高まり、より多くの投資を集中させる醸造所が必要となりました。これは、小規模な醸造所にも影響を与えました。大恐慌の間に資本を調達することは非常に困難なことでしたが、E.Pのような裕福なビジネスマンにとっては容易でした。テイラーは、しばしば単純に、ライバルの醸造所を閉鎖させるためだけに、ライバルの醸造所を格安価格で買収しました。

 

1950年代にテレビが世に現れ、それがもたらした広告の時代は、国家ブランドをさらに強化するために役立ちました。そして1970年までに巨大な醸造所だけが残ることになったのです。そして、オンタリオ州で一時的に多様性が失われてしまいました。この地域の起源であったエールスタイルのビールは、統合の著しい犠牲者でした。

 

小規模醸造所の復活

 

1980年代に、品種と品質を追求することにより輸入ビールが増加しました。ビールへのこだわりと輸入が、米国の一部ですでにブームとなり根づき、ビールを飲む人々の新たな興味を呼び覚まし、小さな醸造所が復活するための舞台を確立することになりました。1984年、ブリック・ビール醸造所がワーテルローにオープンし、新たな時代が始まりました。

 

今日、お陰様で、30軒以上の小さな醸造所がオンタリオ州の素晴らしい醸造の伝統を復活させ、150種類以上のさまざまな天然材料を使用し、地元で生産されたクラフトビールを提供しています。中でも、ブラック・クリーク・パイオニア・ビレッジの中心部にある、ブラック・クリーク・ヒストリック醸造所では、オリジナルの1860年代のエールとポーターレシピを醸造しています。